菅江真澄遊覧記から

 30歳で初めて陸奥に入り、69歳、角館で没するまでの半生の殆どを旅のうちに過ごし膨大な民俗資料を私達に遺し てくれた三河(愛知県)の人、菅江真澄は「奥のてぶり」【(寛政6年:1794)、「雪のもろ滝」(寛政8年:1796)に【たんぽ焼き】という食品につ いて書き記しています。

[1794]

 寛政6年の正月を下北(青森県)の田名部で迎えた真澄は、2月3日吹雪の夜、恐山宇曾利湖のほとりの、とあるきこり小屋に宿をもとめます。

 「…4日、朝早く、神に供え物を奉るのに拍子木をうつのもいっぷう変わっていた。この山では十二月の十二 日に山の神を祭るというが、あれこれの供え物を木の皮、あるいは藁(わら)で、[皿むすび]という容器をつくり、それに盛って供えるという。山子らが二人 [きつ(木櫃)]といって、木材をくりくぼめたものに飯を入れ、細い杵(きね)でついて餅にし、[たんぽやき]といって、これを火の中にくべてやき昼飯に といってくれた…」
*「奥のてぶり」(内田武志氏口訳より)

 これには図絵がついていて、折敷(ヘラ状のもの)の上にのせられた[たんぽ焼き]は、どうみても[おはぎ]か[五平(御幣)餅]のような感じなのです。

[1796年]

 しかし、「雪のもろたき」(寛政8年)の[たんぽ焼き]は少し様子が違います。

 寛政8年10月27日、真澄は岩木山中にある「安間の滝」という名瀑を見るため、案内人を頼んで雪をかきわけながら山に登り、真柴でつくった樵小屋に宿をもとめました。
「…村里では寝につく時刻を告げる鐘をきく時分であろう。“ああ、退屈だ何かしよう”といってふただび飯をたいた。

 [たんぽやき]という餅をつくろうと、きつ(木櫃)に飯へらをつきたてて飯をねり、それを木の長い串にさし、あぶって[みそ]をつけて、“さあ、これをおあがりなさい”と、二尺ばかりある[たんぽやき]をさしだされた。

 わたくしは三、四寸ほど食べてやめたが、案内人も山男たちも、それを四、五尺ほど食べたであろう……・」*「雪のもろたき」(内田武志氏口語訳より)

 あぶって味噌をつけたというあたりが、いかにも[みそつけたんぽ]を連想させるのですが、真澄は実際に[たんぽやき]を作るところを見たのでしょうか。食べてみたのでしょうか。

 なお、この樵小屋には、出羽国藤琴(秋田県山本郡藤里町藤琴)から来た山子と西目屋の大秋(青森県中津軽郡西目屋村大秋)から来た「木こりの頭」がいたとも記しています。

(郷土史研究家 関 久 氏の論文)