タンポの記録

 20年以上も前のことですが、馬渕八朗(故人)さんから「確か、戦前の毛馬内小学校の何十周年記念の祝賀行事 で、古文書展が催されたことがあり、そのとき出陳された文書の中の一冊がタンポの発祥についての記録が書いてある本だと説明を受けたことがある。」と承 り、早速馬渕さんを煩わして、早くに毛馬内を離れて他郷にお住まいと言うその古文書の持ち主と、その御一族の追跡調査をして戴いたことがありますが、残念 なことに古文書は見つかりませんでした。

 現存する書記録の中で一番古い記事は、大里武八郎(花輪の先人)さんの「かづぬ方言考」のタンポの項です。

 明治初年のお生まれとお聞きした大里さんは、その項で、幼児体験としてタンポ振舞について追想され、また、キリ タンポは明治十数年の頃から町で食べはじめたと記されておりますが、大里さんが遊学のため上京されたのは明治20年前後のことでしたから、実際に見聞・試 食されての記録だと思われます。

 次いでは、明治43年『鹿友会誌』(第33号)に、大湊(青森県)軍港の水雷戦隊の司令をしておられた毛馬内出身の青山芳得さんが寄せられた「大湊より」の中で、 「…只、[タンポ]を味ひ度き(味わいたき)も家庭にその設備なき為、乍遺憾(遺憾ながら)志望を遂げ兼たり(望みが果たせなかった)…」と嘆いておられます。
※ 鹿友会は鹿角出身の在京識者で組織され地元の人達も会員であった。

 また、同じ号に、秋田市在住の鹿角出身の学生、社会人(計48名)を代表して高瀬廉平さんが近況報告を寄せられておられますが、その中に、 「・・近く大会を開き、例により鶏(ニワトリ)にタンポの御馳走有上筈に候」とあり 秋田の「鹿友会」では恒例行事として「タンポ会」を開いていた様子がうかがわれます。

 大正10年10月の「青年の鹿角」紙に、一二三軒(ひふみけん:料亭)の「新米きりたんぽ」という広告が載せら れており、その中でやはり「・・例年の通り云々・・」という文がありますから、山中の山子の「たつき」の中から生まれ、山村そして農村へと伝わり、明治十 年代に町の人々の食卓に登場したキリタンポは、かなり早くから料亭料理として外来の人々にも賞味されていたことがわかります。

 もっとも、大正12年発行の花輪小学校同窓会誌に、「故郷の青年諸君に与う」という題で、在京の学生から投書が寄せられ、その中に、 「・・香水風呂につかり、酒肴にたんぽを喰い、女人とのカルタ取りに溺れるは、酔生夢死に似たり。云々・・」という件りがありますが、これは当時、一二三軒の「きりたんぽ」の名声がいかに高かったかという証左でもありましょうか。
(青年の鹿角:大正10年10月号の広告から)

新 米 切 り た ん ぽ

▲ 今年はどふかと思ったが先づ豊年でいいあんばいだ  もう新米もドシドシ出るだらう

■ 出るともさ 新米と言ひば直ぐ切りたんぽを連想するが、例年の通り一二三軒は食はせるだらう

▲ 食はせる所か夙からやって居るが今年は特に風味がよいと言ふ話だ

■そう聞けば直ぐに食ひ度くなる奴だ 之から行ったら香水風呂の加減も丁度よ いだらう

▲賛成 賛成

■大賛成!! 一二三軒 佐藤 久助  電話二十番 香水風呂の設備あり


 花輪の一部青年のサークルでありました「愛国団」(大正5〜14)の機関紙「愛国」(大正14年 2月号)の編集後記に、 「・…帰途、平塚へ降りて村山隆太郎さん(※花輪堰向村山正氏伯父)を訪ねました…

 特に、故郷味の深い「切りタンポ」を用意して食らしめて下さったことを報告します…」とあり、キリタンポは鹿角から関東へと拡がったわけです。

 なお、この年の「鹿友会誌」(大正14年12月発行)に、当時、満州の大連に住み、満州鉄道に勤務しておられた小田島輿三さん(※シェークスピア学者の小田島雄志氏の父君)が寄稿された「満州で会ふた人々」の中に、「・…武石兄のところで(花輪武石佳久氏父君)或る冬の日、キリタンポを御馳走になって・…」とあります。 佳久さんの話によりますと「当時、満州に居た鹿角の人達は、よく連絡をとりあい、皆、イトコづきあいをしていた」と申しますから、大連の「タンポ会」も随分盛大であったに違いないと思います。 もっとも大正14年の佳久さんは、生まれたばかりの赤ん坊でしたが……。

(郷土史研究家 関 久 氏の論文)