殿様とタンポ

 昔、南部の殿様が鹿角の山中で空腹を抱えて、とあるマタギ小屋にたどりつき、長い串に飯を握り付けて焼いたものを 馳走され、あまりのうまさに「ウム、これは美味なるものじゃ、形が槍のタンポに似ているから、これからはタンポと言うが良いぞ」とおっしゃったので、それ から、タンポと言うようになった……・・。 これは、どなたもご存知、私たちの地方に古くから伝わるタンポの起源についての言い伝えですが、この中の「殿様」とタンポについて考えてみましよう。

・ 殿様考 まず、第一に「殿様」。一体「殿様」はいつの頃の人で、また、何という名前の殿様だったのでしょうか。 「殿様」を素直に「藩主」と考えてみますと、藩主で鹿角入りされたのは、次の御三方になります。

[南部信直公]

(一) 永禄12年(1569)の戦いで、秋田勢を鹿角から駆遂したとき、あとで南部藩開祖南部氏(26代)となられる田子信直公が毛馬内まで駒を進められる。

[南部利直公]

(二) 初代藩主(南部氏27代)南部利直公は、慶長20年(1597)九戸の乱後初の鹿角巡見を行うのですが、どちらにも。「タンポ」を食べたという記録は残されておりません。

[南部利剛公]

(三)3番目に鹿角に来られたのは、大分時代は下りますが、万延元年(1860) の14代藩主(南部氏40代)南部利剛公です。 この時は、小姓山上守古が詳細な随行日記を残しておりますが、ここの日記の中には利剛公が「タンポ」にめぐりあった事実は記されておりません。

[御三家]

 さて、藩公が駄目だったら、次は津軽、久保田両藩にそなえ、藩境警護のため鹿角に配置されていた中野、北、桜庭の御三家ということになります。 ご存知のように、中野、北、両家は、後に南部姓を名乗ることを許される名家、桜庭家も甲州以来お供の家柄でいずれも藩を代表する重臣です。

 御三家は、それぞれ盛岡に居邸を賜り、藩の重要政策の担当者としてお城詰めに終始して鹿角などの領地に帰ることはありませんでした。

 慶長4年4月(1868)、ただならぬ気配のただよう奥州藩同盟の緊迫した情勢に対処するため、鹿角警備を命ぜられ鹿角入りした南部(中野)氏の3千石の大身にふさわしい嬉々たる供揃えを見ますと(御道中日記:川村家文書)「…・山中で“タンポ”の馳走にあずかる…・」などという事は、とてもありそうにもありません。 このあと、南部北家、桜庭氏も戌辰の役には、領地の鹿角に帰って来るのですが、花輪の南部さん同様“タンポ”を食べるいとまは無かったものと思われます。

[御境奉行]

 南部本藩には藩境警護の御境奉行という職制があり、常時、4名の武士が任命されており、他藩と境界を接する行政区の代官所には御境役、御境古人、御山見などが配置されておりました。 鹿角市史資料第13集「勝又家文書」御境御用留(文政2年:1819)によりますと、本藩の御境奉行には坂本栄馬、神子田求馬、多賀伏宮、池田貢の4氏で、いずれも3百?4百石取りの、現代風に例えれば中級管理職といった身分の方達でした。

 御境役は毛馬内通りに4人、花輪通りに4人、御境古人は毛馬内通りに10人、花輪通りに13人、御山見役は毛馬内通りに13人、花輪通りに3人が任命されておりました。 古人と御山見は毎月1回、御境役は春秋2回の廻山が義務づけられ、本藩の御境奉行の巡視は忍廻りをもって年1廻、随行者は若党1人、槍持ち1人、ゾウリ取り1人、御伝馬1匹、馬乗の御境役1人、古人1人の計8人と定められておりました。

 鹿角市史資料第5集天山堂文書にある「御宿御賄献立書留帳」宝暦14年(1764)4月13日の項によります と、御境奉行の宿所には代官が表敬訪問するなど中間管理職とは申せ地方ではなかなか権威のある存在で、随行の小者や巡見先の住民たちからは「殿様」と呼ば れていたことは推測に難くありません。 槍持ちがお供の中に義務付けられていることからも「槍のタンポと言え…」が真実味を帯びていますし、伝えられる「むかし、南部の殿様…」の殿様は、この御境奉行ではなかったかと思われてなりません。

[タンポの語源]

 数年前のことですが、公共放送の若いディレクタ?が私の家にタンポの取材に見えたことがあります。 このディレクタ?氏はどこで仕入れてきたのか、例の「むかし、南部の殿様…」にふれ、「タンポ槍というのは、本 槍の先端をワタでくるみ、布で包みこんだ“稽古槍”のことで、キリタンポのタンポの形とは似ても似つかない。こんな伝承はウソパッチだらけだから、タンポ の“鹿角発祥の地”説はあり得ないこと。」とのきつい談じ込みようでありました。

 “タンポ槍”と“槍のタンポ”とは全く違うのだと、るるお話申し上げたのでしたが、なかなかわかってもらえず、 私はナゲシに掛かっていた鞘付きの9尺槍を取り出してお見せし、「これが槍のタンポなんです」と説明したのですが、何しろ、一流の大学を出たエリートだと いうことを鼻の先にブラ下げたような青年でしたので、あんまりいい返事をしないで帰ってしまい、ガッカリした思い出があります。

[大里武八郎(花輪出身の先人)説]

 大里武八郎さんは、「かづぬ方言考」の中で、「鹿角地方では“蒲(ガマ)の穂”をタンポと呼んでいるが、このタ ンポは穂の形状から“立ち穂”であり、それの音使い変化であろうとおっしゃって、飯を握り付けた形が蒲の穂に似ているのでタンポと言ったのだ」と推測して おいでです。

[内田武志(秋田市名誉市民)説]

 内田武志さんは、「槍の鞘をタンポと呼んでいるから」鞘付きの槍からの連想でタンポと言ったのではと推測しておられます。
 蒲の穂のタンポと、槍の鞘のタンポの相関性については、よくわからないのですが、私はやはり、「むかし、南部の殿様…」の伝承を信じて、内田説に与(くみ)したいと思います。


(郷土史研究家 関 久 氏の論文)