ウサギタンポ

 現在は林道も整備され、伐採現場には山小屋代わりに廃車になったマイクロバスなどを持ち込み、山子は家から車で通勤するという夏山稼働が主力となってしまいましたが昔、小屋架けに使う鳥羽や食糧などは人や馬で運搬したものでした。

 蛋白源の魚類も塩鮭や身欠き鰊(ニシン)、乾貝など保存の効くものだけしか持って行けなかったといいます。

 従って蛋白源確保のため、山兎の通り道に馬の尻毛を輪に結んだワナをかけることもよく行われました。 兎の獲れたときは早速「ウサギ貝焼(かやき)」になりましたが、残りの肉はナタの背で骨ごと叩き、味噌を混ぜて トリキシバ(クロモジ)などの太目の枝に握り付け、これを“ウサギタンポ”と呼んで、焼いて鳥羽の壁にさしておき、タンポのおかずや晩酌の酒の肴などにしておりました。

 鹿角観光ふるさと館「あんとらあ」の手作りコーナーでは、細谷肉店によって、この野趣に富んだ食品がアレンジされ「山子タンポ」と名付けられて販売されています。

・鹿角山子  日本民謡の最古の旋律とも言われている鹿角民謡「秋唄」にこんな歌詞があります。

♪夜明島 夜明島 デャハ?ヨ?

なぼか 山子達(だち)ア 登るだか?(ハェ?)

(岩波文庫「日本民謡集」:町田嘉章他編)


 鹿角・二戸の山々は、藩制時代から沢山の山子が入り込み働いていたことが知られていますが、これは日本一といわれた尾去沢鉱山をはじめとする鹿角の鉱山群の稼行のための薪炭や坑木などを伐り出すためでした。

 天明8年(1788)尾去沢を訪れた幕府巡見使に対する問答想定書とでも言うべき「御答筋抜書」によりますと、当時の木材年間所要量は

一・ 木炭 五十万貫匁

一・ 燈し竹 七百五十万〆(マインランド尾去沢の「さむらい坑道」の灯(燈)火は全て根曲がり竹に火を灯もして用いました。1〆は250本でした。)

一・ 春木(薪)三千五百間

一・ 留木(坑木)五万本

という、莫大な数量でありました。


 このような大量の木材を確保するために、花輪代官所管内(南鹿角一帯と田山地方)の170カ所の山々が “御銅山付御山”として留山に指定され(明和3年、1766年)、従ってこれらの山々には鹿角の山子のみならず、二戸・北秋田の山子たちが沢山入り込み、 働いておりました。

 幕末、鹿角を廻った高山彦九郎を驚倒させた「春木の流送」の技術もこの人達によって案出されたものでした。

 これらの山子と「殿様」の出会いが、タンポという名称を生んだと伝えられている訳です。

(郷土史研究家 関 久 氏の論文)