山子とマタギ

 山村に住む人々は、山の神は女の神様だと信じていましたから、山村生活者である山子もそれぞれお互いに共通のタブーと忌み言葉を持っておりました。

 安村二郎(同じ郷土史研究家)さんのお話によりますと、大湯の上流地域では、初めて若者組入りした青年が山に入 る時は、素っ裸になって足をふんばり、両手を大きく広げて「雄叫(おたけ)び」をあげる習わしがあったと申しますが、山村の人達は、様々なしきたりを厳重 に守ることによって、山の神様を畏(おそ)れ尊(たっと)び、山の暮らしの安全を図ってきました。

 山村の人々の中には山子専業、マタギ専業の人も居ましたが、伐採の仕事のある時は山子として働き、終わればマタギになって鳥獣を狩る人達が随分おりました。 しかし、山子とマタギの決定な相違は、山子が、ある期間、一定の場所に住んで働くという、いわば定住性があるの に、マタギは、焼き飯や乾飯(ほしいい)、煎り豆などで飢えを凌ぎながら敏速に獣を追って山野を跋渉(ばっしよう:山川を歩き回ること)する、いわゆる移 動性があるということにあります。

 タンポの起源について、山子説、マタギ説の両論がありますが、私は山中での生活の方法から「山子起源説」に与(くみ)したいと考えております。

・呪文

 昭和47年の早春のことでした。 曲沢(市内花輪地区の辺地集落)の松岡堅治さんから「花軒田(曲沢の隣接集落)の人達と炭焼いているから見に来 ないか」とお誘いを受けましたので、カメラ、8ミリ、録音機などを背負って、指定された山里に行きますと、顔馴染の両部落の父さんたちが居て、近くの雑木 林からはノコの音がしていましたし、炭焼小屋には大きな半白炭の窯(かま)が築かれ、焼き上がった炭の窯出しの最中でした。 また、何人かの若い父さん達がカンジキをつけて猟銃を持ち「兎コ一杯とってくるがらな」と声かけしながら山の中へ入って行き、暫くすると何発もの発砲の音が遠くから聞こえてきました。 但し、収穫は残念乍らゼロでした。

 そのうち「ちょっと来てみろ」と呼ばれ、林の中へ行きますと、三方に枝の張った大きな木のまわりに〆縄を張り巡らし、ノコやマサカリなど山の道具一式を木の根におき、濁り酒を供えて、その前に曲沢の長四郎さんがひざまづいて、何やらブツブツ唱え言をしているのです。

 やがて立ち上がると呪文を唱えながら、左廻りに3回、右廻りに3回、ゆっくり丁寧に木の周りを巡り、それから「よし」と低い声で言うと、酒を木の根にふりかけ、やおらノコを取り上げ、静かに、しかし力強く挽きはじめました。 訳を聞きますと「三本木のマッカ(また)の木だの、鷹が巣くんでいるような高い木を伐るときには、ようっくおがまないと山の神さんの罰あたるから」と言うのですが、呪文については、どうしても駄目だと教えてもらえませんでした。

 山の人達は、鷹を山の神さんの使い者と言い伝えてきたと聞きました。

  呪文は、実はその晩、堅治さんの家での慰労会で酒好きの長四郎さんを酒漬けにして漸く聞き出すことは出来 たのですが、御本人は話した途端にオイオイ泣き出して「呪文は父子相伝で、俺が山頭が充分つとまると見極めたとき、父親から他言無用ときつく言われて教 わったんだ。それを、お前みたいな素人に漏らしてしまって........。」というのです。

 まわりの人達は「泣き上戸だから」と気にとめるふうもありませんでしたが、私は慌てて絶対他言はしないからと何度も何度も約束して、その場をとり結んだことでありました。 長四郎さんは二戸から曲沢に婿に来た人で、若い頃は、“樺太ジャコ”を何年もやったという山子のプロだったのです。

 さて、その夜、機嫌をなおしてから唄ってくれた「岳岳さん」の素晴らしい旋律は今も耳底にあります。もう故人となってしまわれましたが、あの呪文は約束通り生涯人に漏らすまいと思っております。

 思うに、山仕事での事故の大半は樹木の伐倒方向の誤によるものでしたから、ノコのあて口の慎重な検討と山の神様を問うためのセレモ二?だったのでありましょうか。 なお、このとき撮った私の下手クソな8ミリは、その年の夏頃、ABS秋田放送から「山子の唄」という題で放映させてもらいました。

(郷土史研究家 関 久 氏の論文)