鹿角の伝説

 「昔、南部の殿様が鹿角の山中で空腹をかかえて、とあるマタギ小屋にたどりつき  長い串に飯を握りつけて焼いたものをご馳走され、あまりのうまさに「ウム、これは美味なる  ものじゃ、形が槍のタンポ(刃の部分を覆う鞘のこと)に似ているからこれからはタンポというが良いぞ」とおっしゃったので、それからタンポというようになった……」


阿部真平氏(故人) 鹿角タイムスS54.10.10

 きりたんぽは昔、八幡平の老沢、トロコの熊狩り猟師達の夕食だった。 トロコ、深、熊沢(八幡平地区の集落名)の熊撃ちのマタギは、熊を追うときの飯は、握り飯 ではなくたんぽであった。クルミみそを付けて焼いたタンポと、タンポにニンニクみそをつけた ものを食べた。しかも、二日分も三日分も背負って歩き、飯は炊かなかった。 熊を撃てば、熊鍋にタンポを切って入れて賞味をした。 ある時、志張の西で発見した熊を追って夜明島へ、夜明島から玉川温泉の西北の柳沢 へ、そして柳沢から土ケ久保へ追って、阿仁のマタギの協力で熊を撃った。 早速、熊鍋にタンポを入れて食べたら、阿仁のマタギ達は大喜びして熊鍋にタンポを入れて 食べることをマネするようになった。


徳川時代中期? 阿部真平氏(故人) 鹿角タイムスS54.10.10

 湯瀬温泉関直旅館(湯瀬ホテルの先祖)に湯治中の南部藩の殿様が、トロコの熊うちマタギに 同行し、熊を撃ったのが夕刻だったためトロコ温泉に一泊、熊鍋の美味しさを楽しんだが…。 殿様は、奥の部屋で重臣と熊鍋の晩酌を楽しみ、白飯一杯食べて小用に立ち、マタギたちの 部屋を通ったら、老沢の山口さんらマタギ達は飯でなく、タンポを熊鍋に入れて飯の代わりに 食べていた。殿様が「何の飯だ」と聞いたら、「タンポを切った飯だ」との答えに、「タンポを切ったのなら “キリタンポ”ではないか?」と教えられ、マタギたちもその夜からタンポ飯ではなく、         キリタンポと呼ぶようになった。 「殿様がたいへんうまいご馳走だと誉めた…」ので以来、八幡平地区ではご馳走として普及し 花輪、尾去沢、柴平の人たちもきりたんぽをご馳走料理として愛用するようになった。


1785(天明5年) 菅江真澄 鹿角に入る

1794(寛政6年)菅江真澄 「奥のてぶり」 青森恐山宇曾利湖ほとりの杣小屋
 寛政6年の正月を下北(青森県)の田名部で迎えた真澄は、2月3日吹雪の夜恐山 宇曾利湖のほとりの、とある杣小屋に宿を求めた。 「…四日、朝早く、神に供え物を奉るのに拍子木をうつのもいっぷう変わっていた。  この山では十二月の十二日に山の神を祭るというが、あれこれの供物を木の皮  、あるいは藁で皿結びという容器をつくり、それに盛って供えるという。  山子らが二人きつ(木櫃)といって、木材をくりくぼめたものにご飯を入れ、  細い杵(きね)でついて餅にし、[たんぱやき]といって、これを火の中にくべてやき  昼飯にといってくれた…」


1796(寛政8年)菅江真澄 「雪のもろたき」青森岩木山中の杣小屋

 秋田県山本郡藤里町藤琴の山子と青森県中津軽郡西目屋村の木こりの頭 寛政8年10月27日、真澄は岩木山中にある「安間の滝」という名瀑を見るため 案内人を頼んで雪をかき分けながら山に入り、真柴でつくった杣小屋に宿を求めました。 「…村里では寝につく時刻を告げる鐘をきく時分であろう。  “ああ、退屈だ何かしよう”といってふたたび飯を炊いた。  [たんぱやき]という餅をつくろうと、きつ(木櫃)にへらをつきたてて飯をねり  それを木の長い串にさし、あぶってみそをつけて“さあ、これをおあがりなさい”と、  二尺ばかりある[たんぱやき]をさしだされた。  わたしは三、四寸ほど食べてやめたが、案内人も山男たちも、それを四,五尺  ほどたべたであろう…」  この杣小屋には、出羽国藤琴(秋田県山本郡藤里町藤琴)から来た山子と西目屋  の大秋(青森県中津軽郡西目屋村大秋)から来た「木こりの頭」がいた。


1834(天保5年)長谷川伊右衛門 「天保凶飢見聞録秋田県鷹巣町

 当年市日の場景 「一,当年市へは食ものばかり多く出てたるなり。其有増をいふときは、根餅・粃餅・ひねり飯  白粥・菰酒・小糠餅・松皮餅に、ぶど葉餅・染餅・雑煮・稗団子・反甫(たんぽ)・ころばし  ほし餅・豆腐……・」


1872(明治5年)

 浅利佐助翁、花輪にて醤油醸造業始める。


1880頃(明治十数年頃)大里武八郎(明治初年生まれ)

 「鹿角方言考」(昭和21年)
 「たんぽ」の項 「新米の出盛る頃、たんぽ振舞とて、親戚知人などの家庭的集会をなし、…・ 焼きながら話しながら情誼を温むる風ありき、此の地の人には最も忘れ難き食べ物の 一つなり…又素焼きのま々なるを……切りたるを鶏肉…鍋の中に投じ…「切りたんぽ」という。 ……明治十数年頃より(鹿角で)始まり酒客にも賞味せられ、次第に流行し  近頃(昭和20年当時)は、大館秋田地方にては、名物料理として宣伝するに至れり。…」


1887(明治20年) 小野儀助 「小野儀助日記」

大館町大町呉服店マルコの大旦那
 12月1日の項 「……夜。鶏皿やき・たんぽに而大食せり」


1896(明治29年) 小田島由義

「伏雲叢書」(明治27年から大正9年までの日記) 明治時代の花輪町長
 1月2日の項 「徳蔵盟友を掬翠楼上に会す、夜次郎三郎の友を招き短蒲(たんぽ)を饗す、喧噪甚し」


1901(明治34年)阿部真平氏(故人) 鹿角タイムスS54.10.10

 「明治34年、菊の花作りに興趣のあった当時の尾去沢鉱山長の菊田氏は、菊作りの県北  の名人であった大館の北秋クラブの石川さんに習いに通っていたが、その年石川さん夫妻  を馬車で招待しその晩にキリタンポをご馳走した。  キリタンポを賞味した石川さん夫妻は一泊して、タンポの作り方、焼き方、切り方等を習い  ながら実演して、翌日からどんぶり飯注文の客にキリタンポを提供して喜ばれ、キリタンポが  好評されて客が増え、翌年増築するまでになり、それを見た他の料理店でもキリタンポを  提供するようになった。」


1905(明治38年)阿部真平氏(故人) 鹿角タイムスS54.10.10

 「当時大館中学生だった阿部藤助(故阿部隆ノ助氏祖父)、渡部繁雄(後の鹿角郡農協初代組合長)  関省三(後の料亭二葉主人)、工藤活六(後の花輪町議)が料亭みどりの女将にキリタンポ  を料理として出させたのが、花輪の料理屋で料理として出すようになったはじまり。  それまでは、キリタンポは鹿角では家庭料理であって料理屋の料理ではなかった。」


1922(大正11年)

 第1回全国日本鶏共進会(上野公園) 比内鶏鍋にキリタンポを入れて試食提供。


1926(昭和初年) 関  久氏 キリタンポ論

 当時の朝日新聞秋田支局長の紹介で秋田市川反の料亭「濱乃家」の主人宮腰了三郎氏が 鹿角時報の川村薫氏の案内で花輪の料亭「一二三軒」でキリタンポの作り方を伝授された。


1931(昭和6年)佐々木彦一郎(1901生)「山島社会史−鹿角民俗誌」(S6)

 花輪出身の民俗学者 マタギとヤマゴの項 「マタギは鉄砲うち、ヤマゴはハリ木伐り、この区別ははっきりしている。しかし双方ともに百姓  が冬の間の仕事として之に従事するのである。……食べ物はヤマゴタンポと称して普通の  タンポの倍以上もある二尺からの長さのものを焼いて食す。又は飯を石で潰して団子にして  味噌汁に入れて食す。(タンポは新米を炊いてこねて木の串につけて焼いたもので、形は  蒲の穂のごとく長さは一尺位、味噌は山椒の実、兎の肉などを摺って混ぜたものを塗り、  焼いて食べるものです。北秋田の特有料理としては、之を又輪切りに切って雉肉などと共に  カヤギ(貝焼き)にするのをキリタンポという。)……十和田湖の伝説のあるじなるマタギ(杣人)  八郎太郎の話はあまりにも有名なればここに繰り返しをなさざれど、杣人八郎太郎の郷土も  亦かづのなり。」


1934(昭和9年)川村薫氏(故人) 鹿角時報S10.1.1

 「去る(昭和9年)10月25日(NHK)秋田放送局(ラジオ)から、秋田川反濱乃家主人宮腰了三郎  さんによって「名物キリタンポ」の放送があったが、……その元祖発祥の地は陸中国鹿角郡花輪町とりっぱに放送してくれた。